!!!!
今回はそこはかとなく邪馬台国九州説の立場で邪馬台国九州説の弱点について考えてみました。あくまでも諸説の一説ということで、気楽にご視聴いただければと思います。
アップしてから気付いたのですが、『伊都国は末盧国の東南ではなく東北』とすべきところを『伊都国は末盧国の東南ではなく西北』と言っちゃってます。すみません。誤記です。
ちなみにこの動画であげた弱点は以下のとおりです。
~九州説の弱点~
1. 伊都国が東南ではなく西北
2. 日数記事からは邪馬台国が遠いと予想できる
3. 三角縁神獣鏡に239年の紀年がある
4. 炭素年代法によると邪馬台国の時代は古墳時代
~九州説の弱点と思われているだけ~
1. 距離では畿内説が有利
2. 邪馬台国の時代は土器が全国拡散する時代
3. 纏向遺跡を邪馬台国とは考えない
4. 箸墓古墳を卑弥呼の墓とは考えない
5. 九州説では大きな人口は収まらない
#邪馬台国,#九州説,#魏志倭人伝,#弱点,#卑弥呼,#銅鏡,#土器,#炭素年代
登山ガイドなどでは距離と時間を併記するのが普通ですよね。
日数表記しかないのは単に距離を測っていないからでは?
たぶん、日数記事があるのは、日数を測ったから、距離の記事がないのは距離を測っていないからか、或いは、記録として後世に伝えられなかったから、総里数の記事があるのは総里数を測ったから、或いは、個々の距離をトータルして総里数を求めたから。こういったあたりがオーソドックスな考え方だと思います。
これに加えて総里数は都合が悪いから、都合の悪い記事は架空にしたいといった説もあります。また、日数は所用日数であって距離ではないため、それぞれの説によって距離の伸び縮みがあります。それに加えて歴史書は原資料のパッチワークというのが私の持論です。
距離を測れる人って逸材でそんなに居ないんじゃないか?って
あの時代の旅って程度はあれどまぁ過酷ではあっただろうし
海旅でダウンして以降は付いて行けなかったとかも十分あると思うんですよね
お!あと10人で、一千人ですね。
頑張ってください。
ありがとうございます。動画をアップしているうちに少しずつ増えて、ついにあと10人にまで迫りました。
末蘆、末盧。中国発音【molu/melu】ですね。
末は、最終、End、
盧・蘆は、芦で
以下妄想。
天皇家の記号が【毛/mo】luを【る/流】と
当時の記紀の関係者各位が解釈した場合。
天皇を伝える意味となり
宮崎県日向【神武天皇を伝える、日向3代を伝える】となりませんか?
末ですから、天皇家【委奴、狗奴】の西の終了部分とも解釈できるので、
末盧国は、本来西暦57年頃の日向国の事では?
最近、南九州にタケミナカタを祀る神社が50以上あると、動画で知りました(笑)
タケミナカタは、南九州に居たの?三輪に移動して諏訪にいったのね?(笑)
古事記の國譲り以前の地名なのかも?知れませんね。
伊都もサンスクリット語訳使えば、邪馬と国ですし、
伊都國を語らない邪馬台国は、
うp主動画で土器を語らないのと同義ですよね~(笑)
倭に対しそれほど興味がない魏から見た邪馬台国(ヤマト)はあくまで九州
瀬戸内交易圏(ヤマト)で実権的だったのは畿内(大和王朝)だったけど
九州(邪馬台国)はあくまで「我こそがヤマトを統べている」としたかった
だから魏に朝貢に行き権威の補強がしたかった
畿内(大和王朝)は敢えて虎の威を借る必要がないくらいに支配的な状態だった
当時の日本人の一人称が「わぁ」だったっぽいから中国人からは倭国と言われたけど
日本人はあくまで「ヤマト」と名乗ってたと思うんだよね
今でも日本人がイギリスをイギリスと呼んでるのと似たようなもんで
あと「オーストラリア(大和)の首都ってシドニー(九州)じゃねーの?え?キャンベラ(畿内)?」
こう言うことなんじゃねーかなぁ
確かに九州勢力と畿内勢力の並列説もありますね。今でも畿内説と九州説以外にも説があり、九州説の中でも論者によって説はぞれぞれだし、邪馬台国論争は壮大です。